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4 ヤクザの情婦から女郎に転落 人身売買実体験者H子さん 私が淫売置屋に売られたのは、1960年代後半のことでした......

H子(1999年11月28日(日)22時47分14秒)

陳さんはじめまして。

お言葉に甘えまして書き込みをさせて頂きます。

私の売春婦としての生活が始まったのは20才の時でした。

ヤクザの愛人としてスナックでごく普通のホステスをしていましたが、私自身に借金は、まったくありませんでした。

でも彼がトラブルを起こしてその落とし前を付けるために警察ざたになる事件まで起こしてしまいました。

彼には、多額の借金がありシャバにいる間は、自転車操業でなんとかなり私も良い生活をさせてもらえていたのです。

彼の兄貴分の方と彼の奥さんと3人で話し合い彼の借金を私がすべてかぶるように決めました。

この時は決して無理矢理そうされたのではなく私自身の意志で決めました。

「その代わり彼が出てきたら私の物だからね!」

とタンカまで切っていました。

でもそれが、生き地獄の始まりだったのです。

700万円の借金の為に私は、すぐさま彼に借りて貰っていたマンションを追い出され全くの無一文となりまさしく丸裸で旧赤線地帯の置屋に売られて行きました。

仲介をした彼の兄貴分の

「俺にも感謝の気持ちをくれよ」

の一言で、置屋から紹介料が支払われそれが丸ごと私の前借りとなり借金は膨らんでいきました。

売春街の入り口近くにある喫茶店で置屋の経営者に引き渡されました。

その経営者が置屋の女将さん(お母さんと呼ばされました..多くの所がそうでした)がやって来るのを待っている間に喫茶店の電話を使い常連さんらしき人に私のことを

「新しい淫売さんが入ったから是非」

といったことを大きな声で話していて他のお客さんたちが、私のことをどう見ているかと思うと凄く惨めな気持ちになりました。

置屋といっても2階にある娼婦達の部屋でお客もとるシステムで皆さんの言われているちょんの間でした。

安いので数をこなしてなんぼの世界でした。

色々な複雑な背景があり存在しているのですが、今もこの世界にいる者としてはこの問題は、書けませんので申し訳ございません。

(......後半に続く)

......

......

50代前半で5年前まで現役娼婦だったH子さんですが、

私の売春婦としての生活が始まったのは20才の時でした。

というお書き込みから逆算しますと、

1960年代後半くらいのお話です。

もはや、戦後ではありません。

大阪で日本万国博覧会が開催される数年前。

アポロ11号が月に着陸した前後。

ベトナム戦争のまっ最中。

そんな年です。

カラーテレビやクーラー、自家用車の普及率はかなりでした。

下手すりゃ今より景気いいかもしれません。

もちろん赤線も禁止されておりまして、赤線地帯なるものがなくなっております。

治安だって今と変わらない......いや、今よりいいかもしれません。

H子さんが女郎の置き屋に売られたのはそんなときです。

ヤクザの情婦でしばらくいい思いをさせてもらっていたが、そのヤクザの借金を肩代わりするように言われて身を売る羽目になったと。

700万の借金に、兄貴分の仲介料が上乗せされて金額が膨らんでいったと。

こういってはなんですが、ヤクザははなっからそのつもりでH子さんを情婦にしたのかもしれません。

最初は現実がわからず威勢のいい啖呵を切るも、実際に売春窟に連れ込まれて「淫売さん」と呼ばれるようになって売られたことを実感、気持ちがどんどん沈んでいったと書かれております。

数をこなしてナンボの淫売さんの置屋で、今も昔も変わらない。

この書き込みは99年ですが、今(2006年9月現在)も昔(1960年代)も、売春窟の実態はあまりかわっていないようですね。

さて次は後半です。

H子さんはご自分が売られた置屋の屋号をはっきり書かれておられましたが、さすがにここでは仮名にさせていただきます。

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